改盗と猫 理山貞二
家庭教師の先生に付き添われて、屋敷の長い廊下を歩きました。目礼する警備員たちの顔を、月明りが仄かに照らしています。
施述室に入ると、すでに祖父を猫に変える準備が整えられていました。部屋は騒音でいっぱいです。数えきれないほどの記関や紀関が立ち並び、伝達装置につながれて唸りをあげています。そして、それらの記紀に囲まれた部屋の中央のベッドで、祖父は目を閉じていました。胸の中央には、もう虎縞の猫の顔が浮き上がっています。猫は緑の瞳をいっぱいに開き、天井に輝く倣蹟(ほうせき)を見上げていました。
「おじいさまは疲れきってしまわれたのだ」父が私に言います。
「あの戦争のあと、おじいさまたちは大変な努力の末に世界を復稿したのだ。我々が今の生活を送ることができるのもそのおかげだ。だがおじいさまは、その役目を果たすことができなくなった、これからは猫になって私たち家族と暮らしたい、そうおっしゃられた。世界はまだ脆く儚い。これからは私やおまえの世代が、おじいさまのかわりにこの世界を補筆せねばならない。猫に書き換わっても、おじいさまは我々を見守ってくださる」
私はもう聞き飽きておりました。最近では逆に父の言葉に疑問を抱くようにさえなっております。なぜ戦争で滅んだ世界を前と同じように復稿しなければならないのか、もっと楽しく明るい世界を創作してもいいのではないか。噂ではありますけれど、この膳夫(かしわで)家を筆頭とする、父たち硯力者(けんりょくしゃ)が自分たちに都合の悪い史実を改ざんし、生き証人たちを鳥や獣に書き換えているともいわれているようです。
そしてこんな噂もあります。意見が合わず、邪魔な祖父を黙らせるために、父が無理やりに祖父を猫に変えようとしているのだとも。
私の考えを読んだように、先生はこちらを見て、首を横に振りました。憶測はいっさい口にせず、とても不安です、とだけ私は父に答えました。
「そもそも記述革新によって本当に世界は救われたのでしょうか」
このお屋敷など本当は存在せず、目の前で動いている記紀もすべてがまやかしで、私たちはただ荒野の焼け跡で死にかけた祖父を看取ろうとしているのではないでしょうか。
「あれが私たちを支えてくれる」父は祖父の上に浮遊する倣蹟を指して言います。
「膳夫(かしわで)家の家宝の力を信じるのだ。さあ、始めるぞ」
父の合図とともに、技師がスイッチを入れました。部屋の騒音がひときわ高くなり、それに応ずるように倣蹟も煌めきを増すように思われました。
そして祖父の胸元の猫が身じろぎし、
次の瞬間に部屋の照明が消えました。
「大変だ。家宝が奪われた」停伝(ていでん)は直ぐに回復しましたが、天井に輝いていた倣蹟はどこにもありません。父は頭を抱えました。
「なんということだ。だが、こんなこともあろうかと、探訂(たんてい)を書き起こしておいたのだ」
探訂は優秀でした。「これは計画的な犯行ですよ」そう言って、祖父の亡骸の上にうずくまっている猫を抱きかかえます
「この猫をご覧ください。瞳は黄色です。融合しているときは、たしか緑だったはず。額の虎縞も微妙に違います。ご老人を猫に書き換える作業はすでに終わっていて、ベッドの上には抜け殻だけが残されていたのです。犯人はその胸の穴に別の猫を潜ませていました。彼が伝記を消したとき、その猫が倣蹟を奪い、そして、ここに隠れたのです」
探訂はつかつかとこちらにやってきます。そして私の傍らに居た先生の胸ぐらを両手で掴み、ぐいと左右に開きました。
裂けたのはシャツだけではありません。皮膚もビリビリと破けて、その下から先生の本当の胸が現れました。そこには猫の顔が腫物のように浮き上がっております。
「なんということだ。貴様、改人(かいじん)だったのか」父が叫びました。猫は倣蹟を先生の、いいえ、改人の手に吐き落とすと、くわっと緑の眼で父を睨みました。
「予告通り、これはいただきました。これ以上、貴方がたに世界の筋書きを任せるわけにはいかないのでね」
警備員たちが盗人を取り囲みます。と、改人の胸から猫が飛び出しました。みるみる大きくなり、羆のように立ちはだかって、取り押さえようとする警備員たちをばたばたとなぎ倒します。
探訂は少しも動じませんでした。化け猫には構わず、拳銃を構え、胸にぽっかりと穴をあけた改人に狙いを定めます。
と、そのとき、探訂に小さな影が跳びかかりました。猫に書き換わった本物の祖父でした。祖父は探訂の腕にがぶりと噛みつきました。
銃声が轟き、ふたたび室内は闇に閉ざされました。部屋に明かりが戻った時、改盗と猫たちの姿はどこにもなく、そして倣蹟は探訂の手の中にありました。あとで探訂が明らかにしたことですが、施述室の記関や紀関の一部を、改盗はこっそり奇関や綺関にすり替えて、それで自らの分身を大きく書き換えていたそうです。
一緒に暮らすことを楽しみにしていたのに、祖父が屋敷に戻ることはありませんでした。おそらく、祖父と父とは本当に意見が合わなかったのだと思います。そして祖父は改盗に協力して、倣蹟を盗み出そうとしたのではないかと思います。きっと今は改盗のところに居るでしょう。そして祖父のことですから、もっと楽しく明るい世界を創作しようとしているに違いありません。
私の見る夢にも、祖父はよく登場します。夢の中で、祖父はどことも知れぬ街を歩き、路地のいろいろな場所を探って、最後には私の先生の姿をした改盗と落ちあいます。彼は先生の胸の穴に勢いよく跳びこみ、緑の眼をした相棒の横に陣取ります。二獣面瘡です。
理山貞二
小説を書く会社員。
酉島伝法って、やっぱりすごい。